今日はちょっと文章が長くなる。
四十七士の墓所前には2枚目のように、墓の位置と名前が記されている。
47人ではなく、48人。討ち入りを熱望したものの周囲に反対されて討ち入り前に切腹した萱野(かやの)三平も入口近い左列手前に含まれているため。そして、間新六の遺体は遺族が引き取ったそうで、ここは供養墓になる。寺坂吉右衛門は83歳まで生き、麻布の曹渓寺に眠っているが、入口手前右奥に明治になって供養のために並んで建てられたとか。
3〜6枚目、大石内蔵助の墓は入口の右奥になる。7〜8枚目、大石主税の墓。
ここで誰かの墓を探している年配の男性がいた。墓を出るといっしょになり、1〜2枚目の案内板を眺めていたら、「実は私は四十七士のひとり、杉野十平次の子孫です」と。墓所の前でそんな人に出会うとは、驚きしかなかった。
ひととき、杉野十平次が槍の名人であったことなどを、言葉が溢れ出るように話された。墓を探していたのを見ていたので「ここは初めてでしたか」と訊くと、そうだと。そして、さらに驚いたのは奥様が水野の子孫だということ。十平次は討ち入りの後、水野家お預けとなっている。十平次の没後300年以上経って、十平次子孫と水野家の子孫が夫婦になっているのは、これまた驚きだった。
その後、杉野氏は境内の土産物屋に寄り、御主人と話されていて、自分が十平次の子孫ということを話されたのだろう。店の御主人から、「子孫の会がありますから」と説明されていた。きっとその会に入られることだろう。
もうひとつの不思議は姉は愛知の吉良町に住んでいて、吉良上野介の菩提寺は、ほんの2キロほど先の華蔵寺(けぞうじ)。杉野氏にそれを伝えた。姉は吉良家とは関係ないけれど、私はいつも西尾市吉良町宛に手紙を書いているし、やはり、不思議不思議の出会いだった。
帰宅して、改めて杉野十平次について調べると、物語では「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていたことになっているけれど、当時はまだ夜泣き蕎麦屋は存在していなかったので創作だろうと。そんな新しい知識を得ただけでなく、、四十七士がぐっと近くなった。
そういえば、吉良町と赤穂市は、松の廊下の事件から交流もなく反目し合っていたようだけれど、平成に入ってやっと東京都墨田区長の仲介によって仲直りをしているとのこと。いやはや、何とも長い年月がかかったことだ。
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