17日に行った鎌倉七切通しのひとつ、名越切通(なごえきりどおし)。載せるのを忘れるところだった。花でも咲いていれば、すぐに載せたのだろうけれど、花らしい花もなく。
名越切通は鎌倉と三浦半島とを結び、鎌倉時代、逗子方面からの鎌倉に抜ける山中で敵の三浦一族の侵入を防ぐ重要な防御施設だったらしい。馬が乗り入れられないように大きな置石が置かれていたり、道幅が狭かったりし、頭上からの矢の攻撃などにも適していたらしい。
やぐらや火葬跡など葬送に関する遺構も多い。
まず、逗子駅に降りた。1枚目の法性寺(ほっしょうじ)へ向かう山門から上り坂。やがて2枚目、日蓮宗、法性寺前に紫陽花の花。
3枚目の岩窟は4枚目の説明の通り。
その先は墓地。5〜6枚目、黒猫が墓守。とても人なつこく、ずっとついてきて、切通入口まで見送ってくれた。
7〜8枚目、大きな羊歯(シダ)が切通の両側に。たまにしか人と出会うこともなく、静かすぎてひとりでは恐い。ここで記念にと写真を撮ってもらったら、私の顔がまったく別人のように写っているのが帰宅してパソコンに入れた後にわかり、あまりに無気味で背筋が寒くなり、消してしまった。戦で多くの人達が亡くなっている場所だろうし、鎌倉や京都だけではないけれど、心して歩かなければと思った。
9〜10枚目、150基以上もある「まんだら堂やぐら群」。残念ながら公開が終わっていて、金網の間から写した。荼毘の跡も確認されている。13世紀後半には存在し、15世紀いっぱいまで営まれていたと推測されているよう。
最後の2枚が、この名越切通ではいちばん有名な場所で、あちこちに掲載されている写真はここがほとんど。今はこんなに狭いけれど、当時はもう少し広く、後世の地震や災害、堆積物などで今に至っているらしい。
これで鎌倉七口、すべて踏破。とはいえ、今回、「大切岸」(おおきりぎし)は見なかったので、いずれもういちど行かなければならない。霊が出るという有名なスポットなどもあり、あまり気は進まない。自分の顔が別人の顔に写っていたことから、身を守るために念珠をつけて眠りにつくようにしている。
過去のすべての人が安らかな眠りにつけますように。
名越切通は鎌倉と三浦半島とを結び、鎌倉時代、逗子方面からの鎌倉に抜ける山中で敵の三浦一族の侵入を防ぐ重要な防御施設だったらしい。馬が乗り入れられないように大きな置石が置かれていたり、道幅が狭かったりし、頭上からの矢の攻撃などにも適していたらしい。
やぐらや火葬跡など葬送に関する遺構も多い。
まず、逗子駅に降りた。1枚目の法性寺(ほっしょうじ)へ向かう山門から上り坂。やがて2枚目、日蓮宗、法性寺前に紫陽花の花。
3枚目の岩窟は4枚目の説明の通り。
その先は墓地。5〜6枚目、黒猫が墓守。とても人なつこく、ずっとついてきて、切通入口まで見送ってくれた。
7〜8枚目、大きな羊歯(シダ)が切通の両側に。たまにしか人と出会うこともなく、静かすぎてひとりでは恐い。ここで記念にと写真を撮ってもらったら、私の顔がまったく別人のように写っているのが帰宅してパソコンに入れた後にわかり、あまりに無気味で背筋が寒くなり、消してしまった。戦で多くの人達が亡くなっている場所だろうし、鎌倉や京都だけではないけれど、心して歩かなければと思った。
9〜10枚目、150基以上もある「まんだら堂やぐら群」。残念ながら公開が終わっていて、金網の間から写した。荼毘の跡も確認されている。13世紀後半には存在し、15世紀いっぱいまで営まれていたと推測されているよう。
最後の2枚が、この名越切通ではいちばん有名な場所で、あちこちに掲載されている写真はここがほとんど。今はこんなに狭いけれど、当時はもう少し広く、後世の地震や災害、堆積物などで今に至っているらしい。
これで鎌倉七口、すべて踏破。とはいえ、今回、「大切岸」(おおきりぎし)は見なかったので、いずれもういちど行かなければならない。霊が出るという有名なスポットなどもあり、あまり気は進まない。自分の顔が別人の顔に写っていたことから、身を守るために念珠をつけて眠りにつくようにしている。
過去のすべての人が安らかな眠りにつけますように。
僕はこんな所好きなんですよ(^^:
何回も読み返しました。
そして今朝もまた1日戻って…。
僕の住む町に「豊前街道・腹切り坂」と言う参勤交代道の難所があります。
そこを思い出しました。
以前、そこを撮影する時に霧に見せるための白煙が出る特殊な発煙筒を焚いた事があります。撮影後に坂の下の集落の人が山火事だと思われたのか、様子を見に上がって来た事があります。説明して謝りました(笑)
墓守の黒猫なんて役者が揃ってますね!
すごい!
僕は背中がゾッとするのがたまりません。
鎌倉の名所ですね!