2022年12月
もうすぐ新年。気分的に慌しい。誰もが同じだろう。
旅の3日目、13日は、まずホテルを出てすぐの興福寺に。
夜中に降った雨も上がり、1枚目の興福寺五重塔がしっとりした景色で目に入ってきた。
2枚目、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛される北円堂(ほくえんどう)。721年建立。興福寺伽藍の西隅に位置し、平城京を一望に見渡すことのできる1等地とか。1180年の被災後、1210年頃に再建。国宝。
3枚目、国宝の三重の塔。北円堂と共に興福寺で最古の建物。
5〜6枚目、重文の南円堂(なんえんどう)。813年、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父の内麻呂(うちまろ)追善のために建立。現在の建物は創建以来4度目のもので1789年に再建。
7枚目、中金堂。
8枚目、1枚目と同じ五重塔。730年、興福寺の創建者である藤原不比等の娘、光明皇后の発願で建立。その後5回の焼失・再建を経て、現在の塔は1426年頃に再建。日本で2番目に高い塔とか。創建当初は約45メートルで、当時、日本で最も高い塔だったらしい。
9枚目から、五重塔近くの錦の敷き紅葉とお地蔵様。これは息を呑むほど美しかった。
旅の3日目、13日は、まずホテルを出てすぐの興福寺に。
夜中に降った雨も上がり、1枚目の興福寺五重塔がしっとりした景色で目に入ってきた。
2枚目、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛される北円堂(ほくえんどう)。721年建立。興福寺伽藍の西隅に位置し、平城京を一望に見渡すことのできる1等地とか。1180年の被災後、1210年頃に再建。国宝。
3枚目、国宝の三重の塔。北円堂と共に興福寺で最古の建物。
5〜6枚目、重文の南円堂(なんえんどう)。813年、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父の内麻呂(うちまろ)追善のために建立。現在の建物は創建以来4度目のもので1789年に再建。
7枚目、中金堂。
8枚目、1枚目と同じ五重塔。730年、興福寺の創建者である藤原不比等の娘、光明皇后の発願で建立。その後5回の焼失・再建を経て、現在の塔は1426年頃に再建。日本で2番目に高い塔とか。創建当初は約45メートルで、当時、日本で最も高い塔だったらしい。
9枚目から、五重塔近くの錦の敷き紅葉とお地蔵様。これは息を呑むほど美しかった。
唐招提寺から薬師寺は近く、歩いて10〜15分。
2枚目、與樂門(よらくもん)。
3枚目、まだまだ炎のような紅葉を見ることができた。4枚目、南門。
5枚目、建物の向こうの、国宝の創建当時から唯一残っている東塔。
6枚目、暗いけれど、右が金堂。左に東塔。
7〜8枚目、金堂。9枚目、金堂の背面から。10枚目、大講堂。
11枚目、東塔。12枚目から西塔。
中学か高校生の修学旅行で訪れた時とはまったく違う薬師寺になっていた。訪れた時にはなかったものが再建されている。当時は西塔も食堂も大講堂もなかったと思う。
当時、有名だった高田後胤管長は、修学旅行生達へのユーモアたっぷりの法話で知られており、私たちも話を聞くことができた。内容は忘れたけれど、後胤さんの姿ははっきりと残っていて、当時の後胤さんの写真も手元にある。それからもたびたびテレビなどで拝見することができた。
1924年生まれの後胤さんは、1998年に74歳で亡くなられた。今思うと、まだまだ若かったのにと思う。惜しい人だった。
2枚目、與樂門(よらくもん)。
3枚目、まだまだ炎のような紅葉を見ることができた。4枚目、南門。
5枚目、建物の向こうの、国宝の創建当時から唯一残っている東塔。
6枚目、暗いけれど、右が金堂。左に東塔。
7〜8枚目、金堂。9枚目、金堂の背面から。10枚目、大講堂。
11枚目、東塔。12枚目から西塔。
中学か高校生の修学旅行で訪れた時とはまったく違う薬師寺になっていた。訪れた時にはなかったものが再建されている。当時は西塔も食堂も大講堂もなかったと思う。
当時、有名だった高田後胤管長は、修学旅行生達へのユーモアたっぷりの法話で知られており、私たちも話を聞くことができた。内容は忘れたけれど、後胤さんの姿ははっきりと残っていて、当時の後胤さんの写真も手元にある。それからもたびたびテレビなどで拝見することができた。
1924年生まれの後胤さんは、1998年に74歳で亡くなられた。今思うと、まだまだ若かったのにと思う。惜しい人だった。
西大寺(さいだいじ)の次は、徒歩で唐招提寺に向かった。
1〜2枚目は、歩いている途中で出会った垂仁天皇陵(宝来山古墳)。全長約227メートル、周囲に水をたたえた濠をめぐらせている。古墳時代(5世紀初め)の前方後円墳。
近すぎたからか、古墳らしい全体の姿はつかめなかったし、こんなつまらない写真しか撮れなかった。
2枚目の古墳左奥に、小さく薬師寺の東塔が見える。
唐招提寺に着き、3〜4枚目、国宝の金堂。大勢の修学旅行生と遭遇してしまった。金堂内には国宝の仏像などが並んでいる。。
5枚目、東室と礼堂。6枚目、国宝の宝蔵。
7枚目、国宝の講堂。8枚目、講堂脇の鐘楼。9枚目、鼓堂。
10枚目、鑑真和尚御廟に向かう途中の苔の庭。
11〜12枚目、、山梔子(クチナシ)の実。
13枚目、瓦土塀と石蕗(ツワブキ)。14枚目、池の植物は冬枯れしてしまっているのに、何本か菖蒲が咲いていた。冬に咲く寒咲き菖蒲(カンザキアヤメ)とは違う。
様々な色の紅葉。
1〜2枚目は、歩いている途中で出会った垂仁天皇陵(宝来山古墳)。全長約227メートル、周囲に水をたたえた濠をめぐらせている。古墳時代(5世紀初め)の前方後円墳。
近すぎたからか、古墳らしい全体の姿はつかめなかったし、こんなつまらない写真しか撮れなかった。
2枚目の古墳左奥に、小さく薬師寺の東塔が見える。
唐招提寺に着き、3〜4枚目、国宝の金堂。大勢の修学旅行生と遭遇してしまった。金堂内には国宝の仏像などが並んでいる。。
5枚目、東室と礼堂。6枚目、国宝の宝蔵。
7枚目、国宝の講堂。8枚目、講堂脇の鐘楼。9枚目、鼓堂。
10枚目、鑑真和尚御廟に向かう途中の苔の庭。
11〜12枚目、、山梔子(クチナシ)の実。
13枚目、瓦土塀と石蕗(ツワブキ)。14枚目、池の植物は冬枯れしてしまっているのに、何本か菖蒲が咲いていた。冬に咲く寒咲き菖蒲(カンザキアヤメ)とは違う。
様々な色の紅葉。
クリスマスイブだけれど、記録的な大雪のところは、それどころではないだろう。本来、キリストの誕生を祝う日なので、多くの人はそれに関係なく楽しんでいるのだろうけれど。
雪に埋もれた寒い中で停電の地域は命にもかかわってしまう。自衛隊の派遣を要請した値域も。早い電気の復旧を祈りたい。
1枚目、たまたま寧楽(ねいらく)美術館に辿り着いたものの、お休みのようだった。けれどこの右手に入っていく外人さんがいて、そこも閉まっていると思っていたので、あら、入れるの? と思って進んでみると、受付に入園料無料と書いてあり、たまたま無料の日かと思ったけれど、年中無料のよう。次々に何人か外人さんが入ってきたので、外国からの観光客の方が、行き当たりばったりの私より詳しいらしい。
2枚目からが入園できた吉城園(よしきえん)で、結構広く、日本庭園と茶室があり、玉砂利や杉苔などに散ったモミジが雨の後で綺麗だった。
最後は出口付近で南天の実。花が少ない季節なので赤い実を見るとほっとする。
雪に埋もれた寒い中で停電の地域は命にもかかわってしまう。自衛隊の派遣を要請した値域も。早い電気の復旧を祈りたい。
1枚目、たまたま寧楽(ねいらく)美術館に辿り着いたものの、お休みのようだった。けれどこの右手に入っていく外人さんがいて、そこも閉まっていると思っていたので、あら、入れるの? と思って進んでみると、受付に入園料無料と書いてあり、たまたま無料の日かと思ったけれど、年中無料のよう。次々に何人か外人さんが入ってきたので、外国からの観光客の方が、行き当たりばったりの私より詳しいらしい。
2枚目からが入園できた吉城園(よしきえん)で、結構広く、日本庭園と茶室があり、玉砂利や杉苔などに散ったモミジが雨の後で綺麗だった。
最後は出口付近で南天の実。花が少ない季節なので赤い実を見るとほっとする。
2日目、近鉄奈良駅から、大和西大寺(やまとさいだいじ)駅へ行くために電車に乗った。奈良公園の鹿や景色が電車一杯に描かれていて賑やかなこと。乗り込むと、中も、すだれや鹿のつり革で、奈良だ〜〜という旅気分になれた。
大和西大寺で降りて、まず秋篠寺へ歩きで。
5枚目、門。6枚目、門からまっすぐに伸びた道が想像以上に長く、広い敷地だとわかった。
7枚目、大元堂。8枚目、藤棚の下で南天の実。
10枚目、国宝の本堂。この中にはみごとな尊像が並んでいて圧倒された。拝見できてよかった。
12枚目、出口になっている東門。
<奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。
(奈良市観光協会より)>
最後は東門を出てすぐの所に奈良競輪場があり、30分に1本ほどの割合で、大和西大寺駅まで往復しているバス。無料なので競輪場利用者と一緒にタダ乗りさせてもらって大和西大寺駅まで戻った。
大和西大寺で降りて、まず秋篠寺へ歩きで。
5枚目、門。6枚目、門からまっすぐに伸びた道が想像以上に長く、広い敷地だとわかった。
7枚目、大元堂。8枚目、藤棚の下で南天の実。
10枚目、国宝の本堂。この中にはみごとな尊像が並んでいて圧倒された。拝見できてよかった。
12枚目、出口になっている東門。
<奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。
(奈良市観光協会より)>
最後は東門を出てすぐの所に奈良競輪場があり、30分に1本ほどの割合で、大和西大寺駅まで往復しているバス。無料なので競輪場利用者と一緒にタダ乗りさせてもらって大和西大寺駅まで戻った。
1〜3枚目、「弥勒堂」は鎌倉時代の建築で、屋根はヒノキやサワラの木を薄く割って重ねた柿葺(こけらぶき)。内陣には「弥勒菩薩立像」や国宝「釈迦如来坐像」などが安置されている。古い仏像を眺めていると仏師の力にも感心するけれど、今まで1000年以上、平和や幸せを願う人々が手を合わせてきたことも感慨深い。
4〜6枚目、室生寺の「五重塔」は高さ16メートルほどで、屋外に建つ五重塔では日本で最も小さい。平安初期、800年頃の建立で、室生山中、最古の建物。1998年の台風によって大きな損傷を受け、2年後に修復された。
被害を受ける何年か前にも行っているのに、記憶が定かではなくなっている。すでに20年経っているのか、30年経っているのか、それさえ覚えていない……。
最後は五重塔の傍らのお地蔵様たち。
4〜6枚目、室生寺の「五重塔」は高さ16メートルほどで、屋外に建つ五重塔では日本で最も小さい。平安初期、800年頃の建立で、室生山中、最古の建物。1998年の台風によって大きな損傷を受け、2年後に修復された。
被害を受ける何年か前にも行っているのに、記憶が定かではなくなっている。すでに20年経っているのか、30年経っているのか、それさえ覚えていない……。
最後は五重塔の傍らのお地蔵様たち。
11日は、11時前にやっと横浜から京都経由で奈良に着いた。1枚目、改札付近で奈良県ゆるキャラの「せんとくん」。
すぐに長谷へ向かい、2枚目、お寺の手前で昼食。柿の葉寿司がついていた。
3〜4枚目、長谷寺の仁王門。
5枚目から、有名な登廊(のぼりろう)。
<平安時代の長暦3年(1039年)に春日大社の社司(しゃし)中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれている。下・中廊は明治22年(1889年)再建で、風雅な長谷型燈籠をを吊している。>(長谷寺のパンフレットより)
7〜8枚目、登廊を登っていくときの右手の景色。
最後は登廊を登りきった所から長い登廊の屋根を。
また明日も長谷寺の続きを。
すぐに長谷へ向かい、2枚目、お寺の手前で昼食。柿の葉寿司がついていた。
3〜4枚目、長谷寺の仁王門。
5枚目から、有名な登廊(のぼりろう)。
<平安時代の長暦3年(1039年)に春日大社の社司(しゃし)中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれている。下・中廊は明治22年(1889年)再建で、風雅な長谷型燈籠をを吊している。>(長谷寺のパンフレットより)
7〜8枚目、登廊を登っていくときの右手の景色。
最後は登廊を登りきった所から長い登廊の屋根を。
また明日も長谷寺の続きを。
Profile
わたしです
Recent Entries
Archives
Categories
Links